「批判するなら代案を」という言葉、これは一見正論に思えますが、SNSでも議論されるように、「詭弁ではないか」との意見もあります。果たして、正論なのか詭弁なのか、これは状況次第で変わるため、一概に論じるのは難しいところです。私自身は、できる限り代案を提示することを心がけていますが、これは過去のサラリーマン時代の経験が大きく影響しています。
社内の打ち合わせでは、常に批判的な意見を出す方がいると、議論が長引いたり、振り出しに戻ることがよくあります。「批判があるなら代案を出してほしい」という気持ちになりますよね。その方は、批判には積極的ですが、自分の意見を強く主張することはなく、代案も提示しないまま進める保守的なスタンスでした。この経験から、私は「反対するなら代案を提示、代案がないなら賛成する」という習慣を持つようになりました。
ネット上でもこの言葉に対する賛否は分かれています。問題の原因を解決するか、問題から派生した結果を解決するかによって議論の前提が大きく異なるため、そもそも話が噛み合わない場合が多いです。この点については、私自身も半分納得しつつも、完全には腑に落ちない部分もあります。
では、この議論をDXの文脈で考えてみましょう。DXにおける「代案を出せ」は果たして正義なのでしょうか?DXの基本理念は「現状を打破して業務を革新する」ことにあります。従って、現行の規制や慣習に対して批判し、それを基に再構成する議論が重要です。しかし、どの組織にも保守派や変化を嫌う慎重派が存在し、これが「前向きな変革派 vs 現状維持派」という対立構造を生み出すのです。
この構図は、しばしば「世代間の対立」や「IT推進担当者 vs 経営者」としても表れます。反対派の意見は、しばしば代案を提示せず現状維持を主張します。費用対効果や体制など、具体的な懸念を挙げることもありますが、実際には議論の溝が深まり、派閥争いに発展することもあります。
たとえば、デジタル庁への批判もこの構図に似ています。
・方向性は正しいが進め方に疑問がある
・失敗はあるが前向きに進むべきだ
・あるいは単純に反対など
様々な立場から意見が飛び交います。しかし、最終的な判断を下すのはAIではなく人間であり、そのため議論が複雑になるのでしょう。
社内のDX議論においても、「前向き派 vs 現状維持派」は混ぜるな危険です。歩み寄りは難しく、最終的には歴史がその正しさを証明するかもしれません。悪くても現状は維持されますし、試して失敗したら戻せばいいだけです。今の停滞を打破するためには、何かしらの挑戦が必要です。
変化を恐れて「仕事がなくなる」「手間が増える」と反対する声もありますが、ある程度の民主的な議論を許容しつつも、時には強いリーダーシップが求められる場面もあるでしょう。それが、閉塞感を打破し、DXを進める鍵だと信じています。